日本のサッカーの父って?

雑記

今回は日本サッカーの父”クラマー”についてチョットお話ししたいと思います。

昭和35年10月、来日したクラマーは、日本代表の選手と同じ旅館に泊まりこんで、

トレーニングを開始しました。

しかし、ワールドカップのアジア予選で、韓国に2連敗、続くアジア大会でも負けが続き、

一次リーグで敗退してしまいました。

性急(せいきゅう)な人たちは、

「外国からコーチを招いたのに、なぜ、成績があがらないのか」、、と

クラマーに冷たい視線を向けていました。

それでも彼は、基礎に重点を置くやり方を変えませんでした。

「桃栗三年、柿八年」と言われるように、果実でさえ、種をまいてから、樹木が育ち、

おいしい実をつけるまでに何年もかかります。

ましてや、人を育てるのに一年や二年で、際立った結果が現れるはずがありません。

「サッカーの上達に、近道はない。不断の努力(絶え間ない努力)だけである。」

クラマーは、選手にこう訓戒(くんかい)し、ひたすら練習を促していきました。

日本がアジアのチームに勝てるようになってきたのは、三年くらい後からでした。

個人の基礎力アップが、ようやくチームプレイの向上に結び付いてきたのです。

この地道な種まきによって、まず東京オリンピックでは強豪アルゼンチンを逆転で破り、

ベスト8入りを果たしました。

また、クラマーは東京オリンピック終了後の帰国にあたって、5つの提言を残しています。

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  • 国際試合の経験を数多く積むこと。
  • 高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。
  • コーチ制度を導入すること。
  • リーグ戦を開催すること。
  • 芝生のグラウンドを数多くつくること。

今では当たり前のことのようであるが、当時は画期的な提言でありました。

これらをすることにより、次のメキシコオリンピックでは、

サッカー超大国のフランスをも破り、銅メダルを獲得できたのです。

クラマーの母国の西ドイツでさえ、

オリンピックでメダルを手にしたことはなかったのですから、

まさに奇跡的な大飛躍でした。

日本のサッカーを大きく生まれ変わらせたクラマーは、

「日本のサッカーの父」と慕われています。

彼は、日本の選手に初めて会った時の印象を、次のように語っています。

「みんな目がキラキラと輝いていた。どうしても強くなってやろう、

なんでもかんでもドイツのサッカーを全部吸収していこう、

という強い意欲がヒシヒシと感じられた。

彼らがそんな気持ちなら、こちらも真剣にならざるを得ない。

全身全霊を傾けて、強くしたいと思った。」

日本のサッカーの「奇跡」は、選手一丸となって、

よき指導者の教えに従ったからこそ、

現実のものとなったのです。

いかがでしたか?

遠い異国の地で頑張ってくれたクラマーのおかげで

いまの日本のサッカーがあるといっても過言ではないですね。

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